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事件分析(親族2人強殺 松村被告)

京都府長岡京市と神奈川県相模原市で昨年1月、親族2人を殺害し、現金を奪ったとして、強盗殺人の罪に問われた住所不定、無職、松村恭造被告(26)の論告求刑公判が30日、京都地裁(増田耕児裁判長)であり、検察側は「人間性のかけらもなく更生など不可能」として死刑を求刑した。

松村被告は意見陳述で、「事件の最大の原因は自分のエリート意識。自分は特別な存在だから何をやっても構わないとの考えが根底にあった」と説明。事件を起こしたことについて「全く反省していない。遺族を悔しがらせることができてうれしい」などと述べた。
「自分は理不尽な目にあった」「より罪を重くして自分を追い込みたかった」とも言っている。

(http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/murder/?1201697482 YAHOO!ニュース より)


「自分は特別な人存在」という松村恭造被告。

まったく心が育っていない、母親が何も手をかけず世話していないはず。

フロイトのいう口唇期欠損である。

口唇期とは、口と唇の刺激が心地よく、快感を求める0~1.5歳の時期である。

この時期に心地よく母のおっぱいなりミルクを飲み、適切に世話され満足感を味わっていないと、そこに欠損・欠如感が生じる。

以後この人は口唇の満足を求め続けることになる。

その最たるものが、アルコール、覚せい剤など。(三田佳子さんの二男も同じ)

アルコール・覚せい剤に依存し続ける、それは母に依存し続ける講口唇期のあり方そのものである。

依存とは人に甘えることであり、口唇期欠損者は、依存と甘えの行動をとる。

その一つには、自分がこうなるのは全て他者が悪いと思う。

自分の快不快は他者に依存しているから、自分を心地よくするのも不快にするのも他者である。

悪いのは外、他者であり、自分は悪くない、間違っていないという独善論にいたる。

このことと、甘えがいろんな構造を生み出す。

甘えとは、みんな自分を許してくれる、自分だけは特別だ、自分を嫌っているはずはない、何でも自分に与えてくれるはずだと思い込む。

松村被告の「自分は特別な存在だから何をやっても構わない」という言葉はそのものである。

「自分は理不尽な目にあった」とも言っているため、納得のいく世話などされていないだろう。

理不尽に自分を否定され、要求を満たされず、なんで自分だけこんな目にあわなければいけないんだと思っている。

自分がこんない理不尽な目にあっているんだから、人を理不尽に殺しても何の罪意識も持たない。

それ以前に、彼はもう主体性を認められず精神的に殺されてきているのだから。

適切に世話をし、やさしく育てましょうという。

それは、思いやりや配慮、愛情をかけられることによって、情緒性が育ち、人の痛みのわかる、思いやりのある人間に育つからである。


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2月分析理論講座日程のお知らせ

2月は12日(火)と24日(日)の2回分析試論講座を開きます。

12日(火)と24日(日)、両日とも

時 間 : 午後1:30~4:00

場 所 : 京都市伏見区深草フチ町14-103 ラカン精神科学研究所

参加費 : 3000円(テキスト代含む)

講座内容は、分離固体化の過程 (1) 正常な自閉期  (2) 共生期

 分離固体化の過程は非常に大事で、ほぼこのことの失敗、障害により多くの人は子ども時代、いや赤ちゃん時代に固着し留まっており、病理へと移行していく。

興味・関心のある方は下記へお問い合わせください。

℡  050-1035-4401 または 075-644-8126   

メール lacan_msl※yahoo.co.jp(迷惑メール防止のため、※を@に変えてください)

インテグレーター養成講座(自己愛論Ⅱ 自己愛の構造)より

第六回インテグレーター養成講座の内容より、質問のあった箇所を一部抜粋し解説します。

<講座テキストより>
自己意識によって自己像をとらえられない段階においては、自己像を他者の眼の中に発見する以外にはない。
その起源は母のまなざしの中にある。

<解説>
母は自分の子どもに、こういう子になって欲しいと、自分の理想を子どもに投影する。

子どもは母のまなざしの中に映った自分、母が思い描いたイメージを自己像として受け取る。

本来自己像とは、自分でつくらなければいけない。

こういう人間になりたいと、子ども自身の象徴界(言語)でつくった自己像であるべきである。

例えば、3歳は3歳なりに言葉を使い、これが欲しいという自己像を持っている。

ところが子どもが、「あれも、これも、それも欲しい」というと、母は「どれか一つにしなさい」と言う。

すると、本当は3個欲しいのに、1個を選ぶ自分が母親が自分に求めた自己像となる。

そして、それを自分の自己像にしなければならなくなる。

そうしなければ自分を受け入れたもらえないから。

こうして、3個を選ぶ自分は排除さる。

これは子どもにとっては不本意。

「3個欲しい」といって、母が「いいよ」と言ったときには、自分の欲求と一致し、「私は3個欲していいんだ」となる。

この一致の喜びが子どもの自己愛を形成し、その再現を求め、一致は繰り返されて自我が形成されていく。

子どもに健康な自己愛をつくるのも、親の子どもに対する 『 ALL OK 』である。


子育て中のお母さんにいうのは、子どもへの対応法 『 ALL OK 』

頭でわかっていても、それがなかなか実行できないと言われる。

それはよくわかる。私自身がそうだったので。

それでも、分析により自分を知っていくうち、できていく。

もちろんそれには個人差があり、私などは大変な時間がかかったが。

理論的にかみ砕いて説明してもらうことも、私はとても良かったと思う。

今またこうしてクライアントに解説しながら、あらためて 『 ALL OK 』の意味をかみしめている。


ラカン精神科学研究所ホームページ http://lacan-msl.com/contents.html

分析家の独り言(三田佳子さん二男に懲役1年6ヶ月実刑判決)

芸能人の大麻・覚せい剤の事件が度々報道される。
高橋裕也被告は三度目の逮捕。
そのたびに女優で母親の三田佳子さんは謝罪してきたが、その謝罪の言葉がどうも対外的なもので心に響かないのは私だけだろうか。
世間を騒がせたことへの謝罪なのか。
「検察側は約1年半前から覚せい剤の使用を再開したと指摘し、自宅での薬物使用を見過ごしており、両親の監督下での更生は期待できないと実刑を求めた。」と記事にあった。
確かに、両親のもとでの更正は難しいだろう。
かといって、実刑に処し、一般社会から隔絶し、覚せい剤に触れないようにすれば更正できるかといえばそうではない。
鬱などの精神的病理も見られるようで、それを精神科の薬を処方する治療法によって治るとも思えない。
育ってくる過程で、薬物依存や鬱などの病理の種をつくってしまたのだから、養育者(普通は母)が育て治すのが一番良い。
本気で母親である三田さんが、息子である裕也さんを育てなおす気があればできるが、それには大変な労力、気力・体力がいる。
女優の職を辞してでも、この子を何とか人として自立できるようにしたいという強い思いがあればできる。
そこまでの覚悟があるだろうか。
また、覚悟があったとしてもその方法を知らないだろう。
三田さんに限らず、世間一般に精神発達論や精神分析、育てなおしの理論と方法などが知られておらず、いつも残念に思う。
全ては、子どもへの関心、愛着、思いやり、配慮、それらが子どもの心を開き、回復させる。
そういうものをかけられた子は、また人に与えることができるようになる。
親が対応できなければ、本人が覚悟を決めて、自力でやるしかない。
精神分析のめざすところは人間解放(心と身体の解放)と、最後に愛を解くという。

2月(京都)母親教室追加日程のお知らせ

2月は4日(月)の他に、もう1回母親教室を開催します。
日 時 : 2月14日(木)AM10:00~12:00
場 所 : ラカン精神科学研究所(京都市伏見区深草フチ町)
参加費 : 500円
日常子どもさんへの接し方、非行、不登校、ひきこもりなどなど、子育てのするなかでの悩みや迷うこと、わからないこと話しながら、解決していきましょう。
子どもさんの年齢に制限はありません。
℡ 075-644-8126 または 050-1035-4401   [e-mail]

分析家の独り言(振袖)

私事だが、今日下の娘と振袖を見に行った。
上の娘は3年前に成人式で、振袖を買って欲しいと言ったので一緒に買いに行った。
下の娘は今年成人式だったが、式には出ない、でも振袖を着て20歳の記念に写真だけ撮りたいと言った。
その着物もレンタルでいいという。
当たり前だが、姉妹でもそれぞれ考え方、したいことが違う。
兄弟姉妹を平等に扱うことが大事。
しかし、その平等とは、同じものを与え、同じことをすることではない。
その子の要求通りに応えること。
例えば、2歳、5歳、8歳の兄弟がいたとする。
平等にすることがいいことだからと、それぞれにイチゴを1パックずつ与えることが、平等にすることだと思っている人も多いのではないか。
8歳の子はイチゴ1パックを食べられても、2歳の子には食べられない。
それ以前に、2歳の子はイチゴではなくバナナが欲しかったかもしれない。
その子が欲しい物を欲しい分だけ欲しいときに与えること。
クライアントのなかに、兄がテレビが欲しいといい、弟である自分は別に欲しくはなかったが、親が勝手に自分に聞きもしないで、ある日突然テレビが自分の部屋に来たという。
特別欲しくもなかったが、まぁくれるというのならもらっておこうかと思った。
そういうことが多々あったという。
親はそれで、「あれもしてやった」「これもしてやった」と言う。
ところが、子どもの側からすれば、自分が欲しいと言っていないものを勝手に与えられても、してもらったとは思わない。
こういう行き違い、親の思い込みは結構ある。
だからいつも言うが、ALL OK。言われないことはしないこと。わからないことは子どもに聞くこと。
子どもが言わないことまでして、過保護・過干渉することは、支配であり、攻撃となる。

下の娘が自分の好みの振袖を選んでいるのを見て、自分のときのことを思い出した。
私のときは、どの着物にすると聞かれたこともない。
母が気に入ったという帯が来て、次にこの「着物でいいね」と言われた。
しかも、母が本振袖ではなく、中振袖にして(振袖の長さが中振袖は短い)、それを一人でいつまでも悔やんでいた。
その振袖は、成人式と大学の卒業式の2回着た。
よほど中振袖にしたことが悔やまれたのだろうか、ある日また違う振袖と帯が来た。
もちろん、私の好みとは関係なく。
私は私の意志を聞かれることはなかった。
自分の好み、意見を言うことも、私の辞書の中になかったのか。
親に言われるまま、自分を待たず呑み込まれていた。
そんな私が、娘二人のそれぞれの要求に応えられたことがうれしかった。
そして、親への憎しみももう出てっこなかった。
客観的事実として冷静にみている自分がいる。

分析家の独り言(鬱と言語化)

分析は無意識に気づくこと。
無意識であるから、本人にはそれがあることさえわからない。
フロイトがいうように、夢分析等によって、無意識を意識化する。

私は、子どもの頃から友達なんか面倒くさい、一人のほうが気が楽と思ってきた。
ところが、分析を受けるうち、本当は人を求めていた自分、いつも一人でさみしかった自分がいたことを知った。
分析の過程で、なんともいえないさみしさと、何ものを持っても埋められない虚しさを感じ、鬱寸前までいった。
甘えを抑圧してもいた。
甘えは関心をむけられること、世話されることを目指す。
それには病気になること。
これを疾病利得という。
病気になることによって、「大丈夫?」と声をかけられ心配され、甘えられる。
重病であればあるほど、人の世話が必要となる。
病気になることによって、普段はできないが、その人に甘えられるという利益が発生する。
私は分析を積みかなせていたおかげで、疾病利得を使わず、病気という身体化にも至らなかった。

クライアントに二通りあり、分析対象者と、教育対象者がいる。
純粋に分析ができる人は少なく、ほとんどが教育対象者。
教育対象者とは、言語以前の欠損が大きいため、意識化を目指すというより、まず支持することが主となる。
クライアントに共感し、信頼関係を作り、クライアントがなんでも話せるようになること。
そういう意味では、鬱は語れば語るほど落ち込んでしまうため、鬱には精神分析はむかないと言われることがあるが、支持するという方向で行うことは有効である。

私の場合でいえば、何ものでも埋められないさびしさ、虚しさの中、もがき苦しんだが、そんな中でも何とか浮上できる方法を一生懸命考えていた。
それは言語化の道を模索したことであり、結果それによって抜け出すことができた。
抜け出してしまえば、あれはなんだったんだろうと思うくらいなのだが、その最中はどうあがいても抜け出せないのではないかと思うくらい苦しいのである。
それまで積み重ねた分析が、言語化への道を開いてくれた。
言語化することによって、行動化、身体化に至ることはなかった。

金谷氏今月のメッセージ 平成20年1月

(以下は分析家仲間の金谷氏のHPにある金谷氏の今月のセージを私のブログで紹介しているものです。)

年が明けて2008年になりました。

「心理学」と言う学問に出会って20年が過ぎました。
波乱万丈、激動の日々を過ごしてきましたが振り返った時、この20年間が人生の中で最高に学べた時期だと思います。
人間にはまったくと言っていいほど自分の知らない世界がある。
そしてその世界にこそ、悩み苦しみの原因が存在しているその精神世界を知ることが出来たのは、この上ないしあわせです。
今や知って行くと同時に伝えて行くと言う立場も味わいながら、共に心の世界を解明して行く「精神分析」が出来るまでになり、生きている事の喜びと、成長していくすばらしい子供達を見ることもこの上なく幸せだと感じています。
 年が変っても相変わらず、親が子供を殺したり、逆に子供が親を殺すと言う何とも哀しい世界を見なければいけないのは、実に不幸です。
 私達は、15年も前からこの原因を叫び続けていますが、残念なことにご理解頂けず分かっていただける人が私のクライアント以外にいないと言う事は、無念であります。
しかし、私達は諦めることなくこの「ラカンの精神分析と理論」を伝えて行く事は、一生の仕事として、やり続けて行く決意をしています。

精神分析は世間では、ほとんど知られていない。又は説明しても理解していただけない。
理解していただけない大きな理由は「心は見えない」からです。
 心理学は見えない心を言葉で説明する学問で、解ると言う事は頭でするのではなく、解ったと感じるものである。
感じて解った事を言葉にした時、霧が晴れたようにすっきり軽くなるのは、味わった者だけにしか分らない。
 20年前の自分を言葉にしたら「傲慢で無智・強欲・自分さえ良ければ他人はどうでもいい」と自分の考えや意見中心に生きていた。
この心理学・分析に出会ってなければとんでもない人間になっていたであろう。
その私に分析は教えてくれました。何物にもこだわる事無く大きな広い心で物事を捉え、良い悪いではなく、何が自分に必要か、何が益になるかを見極め、自分の物にしていく
それも自分だけではなく、他人も同じ人間であるので自分と同じく尊重するのであると知り得た。
この言葉を表したものがインテグレーターネームであり、これは世間で言う所のカウンセラー・サイコセラピスト・臨床心理士と呼ばれているのと同じで、我が恩師が現した資格である。
どれも国家資格ではない民間団体が独自で名乗っているもので何の効力も無い。
しかし、我々が使っているインテグレーターネームは資格と言うものには拘らず、精神分析が出来るか否かを見極める事を重視する、それは自らの精神が統合されていないと出来ないからです。
すなわち「統合者」でなければ分析は出来ない。その意味で「インテグレーター」を資格として使っています。
 昨年までは、過去に知り得た自分を現す「諸法皆空」と名乗っていたが、昨年私の父の言葉「真実一路」に出会った。私は父を越えるべくこの言葉を越える言語を得た。
その言葉とは、「真理攫取・しんりかくしゅ」=真理をつかみとる。
わが道はこれだと確信してこれを今年より私のインテグレーターネームにしました。
父は手記で「その親の親の親にも似る無かれ」と残していたが、その意味は、親を越える人間になれと言う父の私への願いであったことが分った。
33歳と言う若さでこの世を去ってしまった父の為にも「真理攫取」で生き抜いて行きたいと意を強くしたしだいです。

金谷精神療法研究所



インテグレーター 真理攫取(金谷章吉)

2月 子の「非行」に悩む親たちの会(京都)日程お知らせ

毎月第二金曜日の夜に、非行の子どもさんの問題に悩む親御さんが話しをする親の会が開かれています。
一人で抱えているのはしんどいもので、話をすることで楽になることがあります。

日時 : 2月8日(金) 午後6:30~9:30
場所 : 親と子の教育センター(京都市左京区聖護院川原町4-13 京都教育分化センター内 1F)
会費 : 500円

お問い合わせは、
  電話 711-1150(勝見先生)または、ラカン精神科学研究所 天海まで

分析家の独り言(心と体、ぜんそく)

ぜんそくは母への叫びである。
それを裏付けるような記事があった。
「子供の幼少期に母親のストレスがたまっているとその子供がぜんそくになる可能性が高まる-。カナダのマニトバ大学のコジルスキー准教授らの研究チームは『米呼吸器・救命医療ジャーナル』誌の最新号でこんな研究結果を発表した。・・・母親の抑うつ状態が長期間続いた場合、それがなかった母親に比べ、子供が7歳時にぜんそくになっている確率が1.6倍にも上昇したという。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080117-00000115-jij-int (Yahoo!ニュースより)
「おかあさん、こっち向いて」 「おかあさん、抱っこして」 「おかあさん、甘えたいよ」
子どもは、おかあさんに言いたいことがたくさんある。
けれどもそれが言葉にして母親に言えないと、言葉にならない言葉が咳きとなる。
この記事にあるように、母親ストレスを抱えていたり、抑うつ状態などのであれば、当然子どものこと関心を向けることができなくなり、結果子どもは母親に見捨てられたと思うだろう。
イライラしている母親、元気のなさそうな、ふさぎ込んでいる母親、それらを子どもはみていて、今母親に何かを言えそうにない、頼めそうにない、甘えられそうにないと思い、我慢し黙ってしまう。
それが度々または、長期にわたれば、身体化されぜんそくになる。
大人でも、ある中年のクライアントが、突然ぜんそくとなった。
肺癌をうたがい、病院へ行き検査をしたが、器質的に問題はなかった。
そこで、「田舎に帰ってお母さんと過ごしてきてください」と分析者は言った。
クライアントは母と一緒に布団を並べて寝たという。
そしてぜんそくはとまった。

2月(京都)母親教室日程のお知らせ

2月4日(月)AM10:00~12:00
ラカン精神科学研究所(京都市伏見区深草フチ町)で母親教室を開催します。
日々子育てするなかでの疑問、悩みなど話し合い、症例や理論をまじえながらアドバイスします。
今、子どもさんに何らかの問題があっても、なくても、安心して自信を持って、楽しく子育て出来るようにと願いつつ、この教室を毎月開いています。
お子さんの年齢に制限はありません。もちろんお父さんの参加も歓迎です。
参加費は500円です。
お問い合わせはこちらまで
℡ 075-644-8126 または 050-1035-4401   [e-mail] 

第六回インテグレーター養成講座のお知らせ

第六回『インテグレーター養成講座』を下記の通り開きます。
日時 : 1月29日(火) AM10:00~PM1:30
場所 : ラカン精神科学研究所(伏見区深草フチ町)
料金 : 8000円
講座内容 :自己愛論Ⅱ 自己愛の構造
自己愛は現実の自分(リアルセルフ)、理想自己(アイデアルセルフ)、自我理想(アイデアルエゴ)、超自我(スーパーエゴ)などから成り立っている。それらの関係を説明。健康な自己愛の育て方について解説する。

お問い合わせはこちらへ
℡ 075-644-8126 または 050-1035-4401 [e-mail] 

事件分析(八戸18歳母子殺害事件)

青森県八戸市根城のアパートで母子3人が殺害され放火された事件で、逮捕された長男(18)のその後がいろいろなことがわかってきた。
この長男は、母を殺害後遺体の腹部に人形を詰めていたという。それも女性のフィギアの人形だったことがわかった。
まず母の腹部を裂いて遺物(人形)を入れた。これは胎内回帰願望である。母のお腹の中にいた胎児に戻りたい。そのときにしか彼は安全と安心を感じられたときがなかったといえる。これはまた、彼の再生(胎内から生きなおしたい)への儀式化であり、思考の空想化である。その彼の無意識を具現化・現象化したもが今回の事件となった。無意識は三つの経路をとる。行動化、身体化、言語化。彼は行動化の道をとった。(佐世保の散弾銃乱射事件を思い出す。)
女性の人形であったことから、彼は女の子として産まれたかったのだろう。母が女の子を望んだともいえる。その証拠に殺害した兄弟の長女の首を深く切っており、首を切断するつもりではなかったかという。そこに長女への深い憎しみが現れている。自分がもし女の子として産まれていたら、もっと母は自分を認めたかもしれないと思ったのではないか。
また、分析家の独り言(心の発達 外在化から内在化)で書いたように、彼は内在化の能力が未発達であった。
しかも父不在。実際両親は離婚し家庭のなかに父はいなかった。ただそれだけではない。彼がいくつのときに離婚したかはわからないが、それまでにも父性を持った父がいなかったといえる。父の役目は社会の掟、ルールを教えること。子どもにしていいことと、悪いことを教えることである。
さらに、承認と賞賛がなかった。認められ、できたことを誉められることによって人は、私とあなた(非自己)の区別がつき、自我境界ができる。一人の人間として認められないと個が確立できず、主体性を持てない。そこには根こそぎの主体性の抹殺があっただろう。
彼には三つの障害がある。
1、 知覚の欠如。人の痛みがわからない。
2、 共感性の欠如。喜びや悲しみを共に感じ、分かち合うことがない。
3、 知性の欠如。物事の善悪がわからない。
これは残念ながらもう人間ではない。
しかしこの状態が、日本の6千万所帯で起きているといってもいいかもしれない。
例えば、小さい子どもがこけたとする。子どもは「痛い、痛い」と母に訴える。しかし母は「そんなの痛くない」という。子どもは自分の痛みをわかってもらえず、泣く。すると母は「泣くな」と言う。こうして子どもは自分の痛みを理解させず、当然人の痛みも理解できなくなり、共感する、されるということがわからないまま成長していく。日常のなかにそんな積み重ねが山とある。
家庭の障害は社会の障害である。日本は他人を思いやれない社会になってきてしまっている。
日本の社会制度、年金制度が崩れかけているこの状況は、安心と安全がなく、一部の人間の私利私欲で動いてはいないか。私は度々、日本は危ないと警告してきた。いよいよ末期現象、いやもう終わっていると言わざるを得ないのかもしれない。この日本を誰がどのようにして立て直すのだろう。
一人一人は気づいて、まず個々人から立て直すことしかないように私は思う。

分析家の独り言(自分の足で歩く)

子どもは、けな気である。
母に嫌われないように、気に入られるように母の顔色を見る。
小さければ小さいほど、こどもは大人の、母の庇護なしには生きられない存在である。
だからこそ、適切な世話と配慮、愛情が必要となる。
それには、母がいつも子どもに適切な関心を向け、あたたかいまなざしと、声をかけ、スキンシップをすること。
母性を翻訳し、クライアントに伝えるのは、子どもへの対応法『 ALL OK』。
母親が子どものいうことをきき、振り回されて動くこと。
思春期などには、母親は家政婦のようにこき使われることを覚悟すること。
ところがクライアントはじめ多くの人は、母に嫌われないように、母にあわせ、いい子を演じる。
こう言えば、こう振舞えば母は自分をいい子だと言ってくれるだろう、愛してくれるだろうと、幼心に腐心する。
こういう人は人の評価が気になる。
本来自分のしたいことからずれて、人の評価を得ることが目標になってしまう。
そして、大人たちは、世間一般には、手のかからない、大人の言うことを聞き、反抗しない、おとなしい子と「いい子」と言う。
分析のいう発達論から言えば、最悪の子である。
なぜなら、自分の主体性を殺し、母に気に入られる自我をつくったからだ。
それで自分の人生をずっと歩めるはずがない。
どこかで問い直さなければならないときがくる。
本当に自分はこのまま母の、父の、大人のいう通りに生きていっていいのか?
自分とは何ものか? どう生きたいのか? と。
その問いかけが、まず思春期に来る。
子どもの世界から、大人の世界への移行期がはじまる思春期。
不登校や非行などとして、表面に行動として現れるのはこの時期が多い。
この時期を何も表現せずやり過ごしたとしても、今度は社会に出る時期に問われる。
問題を持ち越し、先送りにすればするほど、回復に時間がかかる。
同時にお金もかかることとなる。
愛情の取りかえしは、年を重ねるほど物やお金に置き換えられる。
子どもが小さいころなら、言うこと聞いて動いて、抱っこして、欲しいものも百円代ですんだものが、思春期ころには金額が上がり、0(ゼロ)の数が2~3個は増えることになる。
親も年をとり、子どもに対応する体力、経済力が低下していく。
ならば、早いうちに気がつき、方向転換し、子どもへの対応を変えることである。
なぜ子どもが引きこもるのか、荒れるのか、精神を病むのか、悪しき結果の基には必ず原因がある。
その原因を見ること、知ることから逃げないで立ち向かうなら、必ず道は開ける。
残念ながら、親が気がつかないまま子どもが大人になり、親の変容も気づきも望めない場合ももちろんある。
その場合には、大人となった本人が親に頼らず自力でやるしかない。
自分と向き合い、自分を成長させていくことができる。
アダルトベイビーのまま一生を終えたなら、それは夢遊病者と同じ。
真に目覚めて、せめて自分の足で歩みを進めよう。
いけるところまで。
自分の意思と意味を持って。

分析家の独り言(アダルトチルドレン)

アダルトチルドレン(AC)という言葉をちまたでもよく聞くようになった。

もともとの定義は「Adult Children of Alcoholics(アルコール依存症の親のもとで育ち、成人した人々)」という意味であった。この言葉は、1970年代、アメリカの社会福祉援助などケースワークの現場の人たちが、自分たちの経験から得た知識により命名したものであり、学術的な言葉ではない
その後、単にアルコール依存症の親のもとで育った子供だけでなく、機能不全家庭で育つ子供が特徴的な行動や考えを持つと指摘された。この考えは、「Adult Children of Dysfunctional Family(子供の成育に悪影響を与える親のもとで育ち、成長してもなお精神的影響を受けつづける人々)」という考えであり、現在広く支持されているアダルトチルドレンの定義となっている。
また近年では、「幼少時代から親から正当な愛情を受けられず、身体的・精神・心理的虐待を受け続けて成人し、社会生活に対する違和感があったり子供時代の心的ダメージに悩み、苦しみをもつ人々」を総称して、メンタルケア(心理療法)が必要な人をアダルトチルドレンと呼ぶこともある。(ウィキペディア フリー百科事典より)

こういう意味ではほとんどの人がACである。
なぜなら、残念ながら日本の家庭の大半がなんらかの機能不全に陥っている。
いや、ACならまだいい、わたしはアダルトベイビ(AB)ーと呼びたい。
時間の流れによって肉体はそれなりの成長をし、年齢は重ねるが、精神は赤ちゃんのままとどまる。
適切な世話、愛情をかけられず、精神の発達が止まり、固着してしまう。
身体的虐待に限らず、精神的・心理的虐待を受けて育った人がいかに多いかをまざまざと知らされる。
それは毎日起こる事件や、クライアントの叫びによって。
赤ちゃん時代でいえば、母親が子どものそばにいて、いつも配慮し、抱っこしないことが精神発達論からいえば虐待と言わざるを得ない。
いつも私は言う、人間には二つの時があると。
一つは肉体的年齢の時と、もう一つは精神の時。
20歳でも、40歳でも、60歳でも、精神的年齢が0歳ということはありうる。
一般的に早く自立するように子どもに手をかけず、なんでも自分でさせるという誤った考えのもと、子育てをすることがある。
子どもが「抱っこして」「これして」といっても、「だめ」「自分でやりなさい」と母親はいう。
突き放すことで、子どもは依存することをあきらめ、自分でやらざるを得なくなり、自然自立心がつくなど、とんでもない。
単なる手抜きと、母親自身のコンプレックスのあらわれである。
十分に依存し甘え、満足することで子どもは依存や甘えから脱却し、自分でできることの喜びや楽しさを知っていく。
依存と甘えを味わえず、得られず、それを大人になっても子どものいや、赤ちゃんの精神のまま求める心が、依存症となる。
それがないといられない、それなしには生きられない。
欲しい欲しいと与えられることを求め、人に与えることを知らない。
その姿は、母のおっぱいを、世話を、愛情を欲しかる赤ちゃんそのものではないか。
とまった精神の時を、その時点まで遡ってもう一度動かすことが、分析の仕事となる。

新規分析理論講座1月開催日程のお知らせ

従来の分析理論講座とは別に、一から新たに分析理論講座を1月より開きます。
日 時 : 1月21日(月) 午後1:30~4:00
場 所 : 京都市伏見区深草フチ町14-103 ラカン精神科学研究所
参加費 : 3000円(テキスト代含む)
講座内容は、心の発達 口唇期の心の発達
理論の最初からですので、入りやすいかと思います。
フロイトがいう0~1.5歳の時期を口唇期といい、この時期の乳児の心の発達を見ていきます。
我々はこの大事な時期を知らずに、安易に過ごしてしまっていることに気づかされます。
不登校、引きこもり、非行、犯罪と様々な問題がある中、子育て中の方、これから子どもを産む可能性のある方に是非知っておいて欲しいことがたくさんあります。
その他、興味・関心のある方は下記へお問い合わせください。
℡  050-1035-4401 または 075-644-8126

分析家の独り言(心の発達 外在化から内在化へ)

内在化とは外にある対象を心の中にイメージとして定着させることである。
最初、対象は外にある(外在化されている)。
人のものを盗んではいけない、万引きはしてはいけないと教わる。
例えば、父がいるときには父の言いつけを守るが、父がいなければ守らない。
監視員やお店の人が見ているとところでは盗らないが、見ていなければ盗ってしまう。
これが外在化の段階。
百万円の札束が置いてあるの見つけて、周りに誰も見ている人がいないと、黙って持って行ってしまう。
しかし、それでも我々が盗らないのは、それは犯罪であり、してはいけないことだという法律や良心が自分の心の中に内在化されているからである。
誰が見ている、いないではなく、自分が自分を見ている。
この内在化には長い時間と体験、訓練が必要となる。

これを親子関係に置き換えると、憎らしい父または母が内在化されてしまったなら、現実の父・母が死んでしまっても憎しみ続ける。
憎らしい母がいたが、その母が死んでせいせいした。これは外在化のレベル。
内在化されたものは、現実の母が死んでも殺しても、心の中にいき続け、消えない。
分析はこの内在化された悪しきイメージをいかに消去するかである。
その前にそもそも何がどのようにイメージされて内在化されているかが問題となる。
対象関係でいうと、憎しみの母(悪い母)に対する自分とは、母を憎む悪い自分。
この母を憎んでいる自分を抱えていることは、非常に不快。
この不快感に耐えらなくて、現実の憎しみの母を殺せば、自分は憎しみから解放されて楽になると思っているから、殺人にいたる。
これはとんでもない錯覚である。
この錯覚に陥ったのが殺人者であり、精神の発達レベルでいえば、外在化のレベルでとまっていて、内在化の能力が未発達なのである。
我々が人を憎んでいても、それは内在化されたイメージであり、実際の人を殺しても憎しみは消えない、殺人は無意味であると知っているから殺さない。
これが殺人者と正常者を分ける境界である。
この内在化の能力は人間にとって大切である。
我々が最初に内在化を学んだことを証明するのは、母の不在を補う移行対象物であった。
完全ではないが、母を移行対象物に置き換え、これを通して次第に内在化と確立して行く。
この移行期にしっかり学習して完全に内在化までの精神の発達を成し遂げていないと、犯罪者になってしまう。
その時期がわずか二歳。
そんなことも知らず、平気で保育園に預けてしまったのでは、子どもの心は育たない。

※移行対象物:母の特質、例えば柔らかい肌触りの縫いぐるみや、毛布、シーツ、タオルなどを、母の代わりとして子どもが肌身離さず持つ時期かある。これによって子どもは母の不在の寂しさを埋め合わせている。

分析家の独り言(知ること)

五十代の女性A子さんの症例。
母のお腹に入っているときから、よその家にもらわれて行くことが決まっていたA子さん。
A子さんは三人兄弟の三番目。
家が貧しく、母はA子さんに三度のご飯を食べさせられないと思った。
ならば、農家で子どもが欲しいという家の養女になったほうが、A子さんのためにもいいだろうと考えた。
この母も、身ごもりながら、いろいろ考えたのだろう。
「A子にご飯が食べさせられるか・・・ それでも手元において自分が育てようか・・・」と。
産まれて、おっぱいをあげるうち、母親はA子さんを手放せなくなり、A子さんを預けて三食、食べさせるか、A子さんのそばにいて二食でしのぐかと考えた。
結局母は、保育園に預けて、A子さんに三食、食べさせる方をとった。
生後1年未満から保育園に預けられたA子さん。
A子さんは朝は早くから、夜はもうみんなが帰り、園長夫妻が晩御飯を食べる横で、母の迎えを待っていたという。
A子さんは言う、産まれた後、ご飯が食べられなくてひもじい思いをした記憶はない。
買って欲しいものもそれなりに買ってもらった。なぜなら、母が一生懸命働いたから。
それなのにA子さんには自分でも不思議と思うある行動があった。
結婚して所帯を持った後も、冷蔵庫が食べ物でいっぱいになっていないと気がすまない。
野菜を見ると家にまだあるのに、買いたくなって買う。
結果、過剰にストックされた野菜は腐って、捨てることになる。
それでもまた見たら買ってしまう。
一般の女性のように、宝石やアクセサリーを見るより、A子さんは野菜やお米を見るときが最高にうれしいという。
A子さんは分析や母親教室、理論講座等で学ぶうち、頭の中のレコードが回りだしたと表現した。

『自我論』のなかで 『胎児の世界』という題で理論を話すが、その中で、胎児は母親のお腹のなかで、じょじょに記憶することができるようになり、母親から様々な感情、メッセージを受け取っている。
だからこそ、胎児だから何もわからないだろうではなく、お腹の子に対する思いやりや、愛しむ気持ちが大事。
どういう気持ちで、どういう環境(穏やかで心安らかに母が過ごしたか、家族内・夫婦の間にトラブルがあるなどにより、不安や怒りの中)で、母親が妊娠中を過ごしたかで、その後の子どもの人生が決まるといっても過言ではない。
妊娠出産するつもりもなく妊娠してしまい、夫が産んでくれというので、仕方なしに嫌々産んでしまった赤ちゃんが、出世後、母のおっぱいを拒否し飲まないことさえある。
それは、母親がお腹の中でまず子どもを拒否したからだ。
もっとひどい時には、赤ちゃんの方が、妊娠を維持するホルモンを止めてしまい、自然流産してしまうことさえある。

A子さんは以上のような理論を聞いて、自分の行動の理由がわかったという。
おそらく母のお腹の中で、母の食べ物に対する不安、願望を読み取り、受け取ったのだろう。
食べ物がないことの不安、だからこの不安を払拭するかのように、食べ物を自分の周りにあふれるほど置いておきたい。
その不安の防衛といて、腐らし捨てるにもかかわらず野菜を買わなければいられなかった。
A子さんの中でそれが自覚されてから、買い物に行って野菜を買いたくなると、内なる声(内的言語という)が聞こえるようになった。
「あんた、ほんとにそれ今いるの」
「まだ家にあるやん。2~3日して、なくなってから買えば、新鮮なまま食べられるやろ」と。
そうして、今はあふれるほど、腐らして捨てるほどの食料を買わずにすむようになったという。

無意識とはこういうもの。その無意識をあつかうのが精神分析。
自分を知らず、理論も知らずにいたら、A子さんは今も無意識に操られ、自分でも説明がつかない行動を繰り返していただろう。
人の行動には必ずそれを支える動機・意味、そして過去がある。
それは我々の記憶がない胎児にまで遡ることさえある。
知るということの意義、知的享楽が精神分析にはある。

こういうことに触れたとき、私の心は感動で打ち震える。
そしてこれは世に知らせたいと。

分析家の独り言(10代、増える精神科通院 より)

1月7日19時39分配信 産経新聞に「10代、増える精神科通院」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080107-00000944-san-soci という記事があった。

 東京都品川区の戸越銀座商店街で5人が刃物で切り付けられた事件で、殺人未遂の現行犯で逮捕された同区の私立高校2年の少年(16)は数年前から精神科に通院していたという。10代の若者が精神科に掛かる数は増えている。「精神科の敷居が低くなってきている」と愛知淑徳大の古井景(ひかり)教授(精神医学)は説明する。
 多くの子供たちが鬱(うつ)状態にあるというデータもある。北大の研究チームが昨年、小4~中1の738人を診断したところ、軽症も含め鬱病と診断されたのは全体の3・1%。“有病率”は中学1年では実に10・7%に達した。
 古井教授は、家族や友人関係が希薄になりつつあることが背景にあると指摘する。「ストレスを吸収するサポート態勢がなくなり、精神科に丸投げされるようになった。(何らかの精神的な問題を抱えると)『ストレスで鬱だから』と精神科に掛かることがトレンドともいえる状況だ」
 古井教授は「本来、精神科は脳の問題で薬を使うことが中心。鬱病の薬を出しておしまいということもありうる」と、悩みの“抜本解決”につながらない可能性も指摘している

私がいつも危惧するのはまさにこのこと。
精神的に辛くなり、しんどくなると、精神科や心療内科に行かれるのがほとんどだろう。
しかし、症状を聞いて、薬絵を処方され、それを飲むことで心の病、悩みの根本的解決、治療になるのだろうか。
記事で古井教授が指摘するように、薬は脳内ホルモンを促進したり、抑制したりと調整するだけで、悩みそのものには作用しない。
欝などは、対象喪失がきっかけとなることがあり、なんとも言えない、孤独感や、孤立感、寂しさ、怒りなどに覆われ、やる気が出なくなる。
脳内ホルモンを調整するよりも、その原因となる事象をみ、そのときの気持ちを語ったり、そのことが過去の何かとリンクしてないかなど、心の傷つき、構造を見ていくことが大事だと思う。
クライアントのなかには、抗不安剤や睡眠薬を飲んでいる方もいる。
飲んだほうが本人が楽なら飲んでもらう。
しかし、必ず飲まなければならないとも限らないので、自分で調子を見ながら調節してもらう。
品川の事件の青年も、数年前から精神科に通院していたという。
ということは10歳過ぎから精神科に通っていたことになる。
それでも事件は起こった。
事件の前に母親とトラブルがあった、いじめがあったとも。
それらいろいろあっても、彼の身近な人、つまり母親や父親が、彼を理解し、対応法を知っていたなら、ちがっていたはず。
人の精神はどのように発達するのかなど、精神分析的知識を是非知っておいてほしい。
またここにも、無知であるがゆえの悲劇が起こってしまった。
残念でならない。

1月福岡出張セラピー・教室の日程

毎月1回、福岡出張セラピーを行っています。
1月の福岡出張セラピーの日程は、22日(火)、23日(水)、24日(木)です。
福岡近郊で分析を希望される方、おられましたらご一報ください。遠方への出張であるため、福岡でのクライアントの方には分析料プラス2000円の交通費の負担をお願いしています。
ひきこもり等により、外出が困難な場合は、お宅へ伺うことも可能です。
母親教室を福岡でも開催しています。子育ての悩み・疑問に答え、安心して子育てできるようアドバイスします。今実際に子どもさんが不登校であったり、ひきこもり、非行などの問題がある方、特に問題はないが、自信がない、迷う、どう対応すればいいかわからない方。また、子育てに限らず、生きていくうえでの、悩み・迷い・疑問などの相談や質問を一緒に考え、分析の立場からアドバイスしていきます。年齢・性別等制限はありません。
1月は、22日(火)午後1時~3時に開催します。参加希望の方は電話・メール等で連絡の上、開始時間までに、福岡西鉄グランドホテル1階ロビーにおこしください。
教室の参加費は、500円です。
各講座(分析理論講座、インテグレーター養成講座)は、一人からでも開きます。
ご希望の方、興味・関心のある方、お問い合わせください。
電話 050-1035-4401
携帯 090-7357-4540
お問い合わせはこちらまで [e-mail]

分析家の独り言(不登校)

昨年度、不登校になる小中学生の割合が五年ぶりに増加していたことが、文部科学省のまとめで分かった。
不登校は、病気や経済的理由以外による年間30日以上の欠席、と規定される。
不登校の実数は約12万7千人で、年々児童・生徒数が減る中でも、ここ十数年間で五番目に多い数字だ。全体の八割近くを中学生が占める。
中学生の不登校率は2・9%と、過去最高を記録した。三35人に1人となり、ほぼクラスに一人いる計算だ。
 以上神戸新聞 「不登校/再増加にもっと危機感を 」 WEB NEWS より抜粋 http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000554954.shtml

不登校、ひきこもりは大きな社会問題となっているが、それへの国や社会の対処法、対策がいつもずれていると感じる。
フリースクールもいいだろう、いじめ対策を考えるのもいい。
しかし根本がわかっていないのではないですかといいたくなる。
少年によるナイフを使った傷害事件が起きると、まるでナイフが悪いかのように言われる。
ナイフは使い方によっては、便利な道具である。
ところがナイフを隠し、少年の目に触れないような方に向かう。なんともお粗末。
そうではなく、ナイフを正しく使う心を育てることである。
不登校児がそうなるにはそうなった理由があり、個々様々ではありながら、その肉体の年齢に沿った心の成長がなされているのかが問題。
だからこそ、人の精神とはどの様に成長・発達するのかを知り、それに沿った育て方をすること。
この精神分析理論(せめて発達論)が日本の世の中に普通のこととして受け入れらる日がくることを願う。
全ては無知であるための悲劇。
子どもたちは叫んでいる、自分を受け入れて、適切に世話して欲しいと。
そうすれば自分らしく、自分の良さを伸ばし、生きていける。
私も知らなかったために、自分も苦しんだし、娘たちをも苦しめた。
これから子どもを持つかもしれない若い人たちに、知ってもらたいことがいっぱいある。
もちろん、子育て真っ最中のお母さん,お父さん方にも。
日本の学校教育も、家庭においても、子どもの主体性を奪い、大人や教師の言いなりに動く子どもをつくろうとしていませんか。
もっと根本から、大人が子どもたちの未来を、人間のあり方を考えなければこの国は衰退し、滅びると思う。

分析家の独り言(死にたいから自我の統合へ)

「死にたい」
「もう終わりにしたい」というクライアント。
それでも分析に通ってくる。
「僕、大丈夫ですかね」という。
「もちろん大丈夫」と私は言う。
逃げないこと、立ち向かう勇気。
クライアントの意識上では、母親は自分の言うことを聞いてくれた、よい母とイメージされている。
しかし、語りを聞くと、とてもそうとは思えない。
対象関係論でいえば、良い母に対して良い自我ができる。
本当に良い母なら、クライアントが死にたいとか、孤立感を感じることは無いはず。
この記憶違いこそがコンプレックス。
本当はどうだったのかを分析を通してみていく。
それはある意味残酷なことかもしれない。
しかし、思い違いのままではいけない。
いやもう行きづまってっている。
愛情の裏には憎しみが隠れている。
「母を尊敬しています、愛されました」という人の裏には、母への憎しみがある。
なぜなら、憎しみ・恨みを持っていることを認めるのは辛いから、愛された自分と思いたい。
ならば、「母が嫌いです」という人には、母への愛着が隠されている。
母へ愛着を認めれば、母を憎みきれなくなるから。
優しいだけの母ならいいが、母にはいろんな面がある。
自分を受け入れ愛してくれた母。
自分を認めず怒った母。
どちらも母という一人の人物である。
様々な面を見せた母を同一人物であると認め、その人の中で統合すること。
と同時に、バラバラにされ、自分ではないと排除されたり、抑圧した自我も統合すること。
防衛の破綻が症状となる。

分析家の独り言(ある家族の光景)

娘と買い物に出かけた先の、デパートのなかにある眼鏡屋さんでのこと。
ねじのゆるみを直してもらうという娘につきあって、店内のいすに座り待っていた。
ある家族ずれがそばにいて、会話や行動がいやでも入ってくる。
両親と男の子二人(小学校4~5年くらいと、1~2年くらいだろうか)
両親はそこで眼鏡を新しく作ったようだった。
それを待つ間、子どもたちは展示してある眼鏡をかけてみたり、兄弟でふざけあったりと、まぁよくみられる光景があった。
それに腹を立てた様子の母親が兄をしかる。
「何で怒られてるかわかる?」きつい口調で言われ、兄は不服そうながらも「暴れてごめんなさい」という。
眼鏡を作るには時間がかかる、おそらく1時間近くはかかったのではないだろうか。
その間まだ小学生の二人におとなしく待っていろというほうが無理だと思う。
自分の物を買うためならまだしも、両親の眼鏡購入に付き合わされるのはさぞ退屈だったろう。
詳しくはわからないが、また母親が怒り出した。
途切れ、途切れの言葉に冷やりとした。
「許さないからね」
「家に帰ったら覚えてなさい」
「ここにきて謝りなさい」
「眼鏡くらい買ってよってなに!」
「あんたは眼鏡が要るほど目が悪いの」
「おしゃれでかけたいなら、大人になって働いてから自分で買いなさい」
「許さない、謝りなさい」
子どもは、困った、まずいという顔で「ごめんなさい」という。
その言い方が気に入らなかったようで、母親は「こっちにきなさい」と呼び寄せた。
子どもは「ごめんなさい」という。
母親は「目をみて言いなさい」とさらに責める。
それを見ている父親は、何も言わず子どもの頭を触っていた。
父親なら、二人の間に入って、母親の感情的な怒り方をたしなめ、子どもを守り、諭すことができないのか。
もしかしたら、この父親も母であるこの妻に、同じような口調で責められ、何もいえないのかと思ってしまう。
母親が日常的にこのような接し方を子どもにしていたなら、子どもは自分のよさを発見できず、言いたいことを言えず、主体性も持てずに育っていくだろう。
そういう子が、あるとき積み重ねた怒りや、不満を爆発させる。
または、精神を病む。
散弾銃を乱射するかもしれない。
この母親もおそらく優しく育てられなかったのだろう。
人はされたことしかできない。
この悲しく、間違った連鎖は、どこかでとめなければいけない。

分析家の独り言(母への恨み)

ある症例。
母への恨みは子宮摘出にいたる。
そう勉強会で聞いたあるクライアントが、想うところがあって、子宮癌の検査に行った。
残念ながら子宮癌という検査結果が出た。
さいわい、第三期であったため、手術すれば大丈夫といわれた。
医者は「何で自分で気がついたのか」と聞いた。
クライアントは、分析で勉強して、母への恨みは子宮摘出になると聞いて、自分は危ないのではないかと思ったとは言えなくて、「勘です」といったという。
女性特有の臓器である子宮、乳房。
母への恨み、女性性の否定は、それら女性象徴する臓器の排除にいたる。
子宮癌はもちろん、卵巣摘出、子宮筋腫、乳癌など。
女性は子どもを産むことによって、自分が母になることとなり、それは葛藤の種となる。
そこに母への葛藤が再現される。
子どもを持ちたい願望と、母になったときの葛藤を無意識に知っているため、それを回避するには子宮を排除してしまうことになる。
それを阻止するには、無意識下に抑圧した母への憎しみ、恨みを言葉で語りつくす、放出すること。
そうすれば、身体化は免れる。
これから女性特有の臓器の病は増えるだろう。

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