分析理論(母性喪失)
母親からの満ちた養育を受ける機会を奪われて育っている子どもの状態を示す。
(メンタルヘルス・シリーズ 「母性喪失」 内山喜久雄・筒井末春・上里一郎 監修 同朋舎)
この当然受けるべき母性的世話を受けられなかった人を「母性喪失者」という。
臨床上、母親が子どものそばから居なくなる(母親の病死や失踪・離婚など)場合のほか、母親が同居していても、母親的世話をし、子どもに愛情を向け接しなければ母性喪失に至るケースは多い。
本来あるべき適切な世話や関心が向けられない子どもは、いつも欠如観を持っている。
この欠如感が強いと、空虚(虚しさ)につながり、それはさみしさとして感じられるため、さみしがりやである。
そのため、いつも何かに打ち込んでいたい、それが耽溺(酒色などにふけりおぼれる)行為に至りやすい。
クライアントの言葉で「スケジュールがずっと詰まっていないと安心できない」ということもよく聞く。
さびしがりやであるため、別れに敏感であったり、いつも何か物を抱えていたいため、物欲が強くなる。
よく見かけるのは、車の中にぬいぐるみがズラッと並べられている光景。
小さい子どもならかわいいですむが、車の運転をするということは少なくとも18歳以上、それには?がつく。
ひきこもりの20歳代半ばの青年で、ベットの周りにぬいぐるみを並べているというのもある。
酒・タバコにおぼれる人もいる。
ブランド品を何点も買い集める人もいる。
こうして集められたものは全て母の代替物(移行対象物)である。
人が集めるもの、こだわるもの、それら母に通じるといっても過言ではない。
今一度、自分を振り返ってみてはどうだろう。
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理論解説(他者の欲望で生きる)
「家族のため、好きな人のためになら頑張れる」と。
自分のためではなく、自分以外の他者のためにやるというのだ。
また、ある若い女性は、「好きな人ができたらやせられる」と言う。
これらは他者の欲望にあわせて生きる構造である。
対象化された自己、相手の自分に向けた理想イメージに、自分が同一化する。
これは全く自分に主体性がない。
主体は相手であり、自分とはまるでゾンビ(死体)である。
いわゆる「良い子」はこの構造である。
自分を出さず、母の親の欲望に合わせて生きる。
わがままを言わず、反抗期もない。
発達上、非常に危険であるが、これが世間で言う良い子。
それが主体(しゅたい)を奪われた死体(したい)。
私の欲望は母の欲望である。
多数の他者の、自分へのイメージに合わせるる人を=八方美人という。
皆に好かれたい人。
これも非常に疲れる。
その人、その人で自分を変えて合わせるのだから大変だろう。
あるクライアントは、自分は自分を生きていいと思えるようになったという。
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理論分析(症状)
フロイトが挙げている、外出恐怖の女性の例。
彼女は、店員たちに服のことで笑われるという観念に捉われている。
分析してみると、彼女は幼い頃、ある老店主に服の上から体を触られるという性的な「外傷」を体験していることがわかった。
その時その老店主は、にやにや笑を浮かべていた。
幼い彼女には、その時その経験の意味がわからなかった。
思春期に達して彼女はその意味を事後的に理解したのであるが、体験そのものの記憶は抑圧され、記憶の代わりに症状が形成された。
「服のことを笑われる」という症状的観念のうち、「服は」幼い頃「服の上から」触られたという観念を、「笑われる」は、「老店主の笑い」をそれぞ象徴している。
このように、事後性という過程においては、ものごとが象徴的に理解されるが、その必然的な代償として、ものごと自体は消去されてしまう。
ここの本では事後性について解説されているが、症状の形成させれる過程としてみてもおもしろいのではないかと思い紹介した。
ある症状が形成されるそのもとには、このように外傷なり、何か原因がある。
それを謎解きのように過去を想起し、紐解いていくのが分析の作業である。
クライアントは想起障害にあり、口をそろえたように「記憶にありません」、「思い出せません」という。
それでも分析者と話しているうちに、「そういえがこんなことがありました」とポロッと思い出していく。
そしてある重大な記憶にたどり着く。
それは見たくない、思い出したないとして、葬り去った記憶である。
だからそこに抵抗を示す。
しかし、その因果関係をクライアントが理解し、了解すると症状は消える。
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理論解説(自己愛パーソナリティー)
それは無力感の裏返しである。
無力な自分を補足するために、常に力を持っていないと不安になる。
ナルシシストは無力感をもち、それに怯えている人。
新生児のときからすでに、母子一体感の自己愛に傷つきがある。
この時期赤ちゃんは常に母親と一緒にいて、母親との一体感を味わい、母親を操れる万能感の中に浸っているのが正常である。
ところがこの時期に母と切り離される時間が多ければ多いほど、赤ちゃんは無力感のなかに埋没する。
それは、母が新生児のときからすでに、子どもに関心と愛情を向け、子どもの思いどおりに動かなかったということである。
これが人の最初にして、最大の自己愛の傷つきとなる。(ただし厳密にいうなら、胎児のときから傷ついている場合も多々ある)
だから、分離固体化の過程において、正常な自閉期は不可欠であるという。
(正常な自閉期とは、生後0~3ヶ月頃で、新たな子宮外環境の中、新生児は感覚・知覚・運動・自我が未分化なまま、絶対的一体感による万能感に浸っている時期)
少なくともフロイトのいう口唇期(1歳~1.5歳)には、常に母親と同じ空間にいて、寝ていても母の気配が感じられるようにする。
こうしたことがないと、自己愛が傷つき、後にこの人は、人を操ろうとする。
そして、人を操るためには権力(ステータス・肩書き)が必要となり、権力志向へ向かうのである。
ナルシシストの最大の病理は、他者を物化・道具化していること。
人を自分を褒めてくれる道具にし、必要がなくなれば人をゴミのようにポイッと捨ててしまう。
分析家や、健康な自己愛を持った人は、人間は人間であると規定する。
人間は、自分や他者を人間であると言いきれないところに、また病理がある。
分析を受けることは、人間でないものにされた人が、人間になること。
人間として唯一規定される場が分析場面である。
(インテグレーター養成講座、自己愛論Ⅲ《自己愛パーソナリティー》の一部より)
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インテグレーター養成講座(自己愛論Ⅱ)によせられたコメントに答えて
<コメント>
3歳の子供の欲求に深い意味はないように思いますが、その要求をそのまま受け入れるのでなく、親の考えも伝え、話し合いによりどうするかの結論を出してもいいように思うのですが如何でしょうか?
最低半分の要求を受け入れた事になるし、妥協、相手の言い分の受容などの形成になると思うのですが、、、。
子供の意思をそのまま無条件で受け入れるのは、我侭な性格を作ってしまう事にならないでしょうか。
おそらく多く方が持たれる疑問、意見と思われますので、ここブログで答えたいと思います。
<解答>
まず、3歳の子どもの欲求には深い意味があます。
三つ子の魂百までと言うように、大変大事な時期です。
0歳から4歳までに人間の基礎となる精神ができあがります。(発達論を学べばわかりますが、ここではそこまで詳しく解説仕切れませんので悪しからず)
一例をあげるなら、分離・固体化の過程において、生後わずか6ヶ月で、自分と他者は違うと認識する基礎がつくられるのです。
それは適切に世話した場合の話です。
そうでない場合は、分離・固体化がなされず、自分の思っていることは他人も同じように思っているはずと思いこんでしまいます。
こういう人は大人でも結構います。
親の考えも伝え、話し合いにより結論を出すには、子どもの年齢が高く、かつ精神的発達がなされていないと、結局親の意見を通すことにもなりかねないと思います。
半分の要求を受け入れるのではなく、ALL OK つまり、すべて受け入れることが大事です。
妥協、相手の言い分の受容などができるようになるために、まず制限を与えるのではなく、全てを受け入れてから。
制限や我慢は親や人から教えられるものではなく、抑制する精神を自分で学びとることです。
与え続けられた人間は、「こんな私にでもここまでしてもらった、申し訳ない」という思いが出てきます。
この「申し訳ない、悪いな」と思う心が抑制する精神をつくります。
そうすると、どんどん要求が減ってきます。
親は財産をはたいてでも与え続け、子どもの要求に応え続ける、それくらいの気概でやらなければ、子どもが自ら我慢を学習することはでません。
これは、臨床上病んだ多くの子どもたちと、その子どもたちに対応した親御さんが実証してくれました。
『ALL OK 』による養育法は、全ての精神病理、異常行動等を正す養育法です。
しかし、これをいうと多くの方が、「そんな我がままな子にしていいんですか」と言われる。
私から言えば、子どもが自分の言いたいこと、要求を言えないことが問題で、ALL OK によって、積極的に世間でいう我がままにするのです。
これが、精神的に死んでた子どもを生き返らせることになります。
ですから「だまされたと思って、ALL OK を3年やってください」と言います。
これをやらないお母さん方からは散々文句を言われますが、実践してもらった方から文句を言われたことはありません。
私も正直娘たちに、ALL OK やりたくなかったです、というかできないと思いました。
自分自身が、主体性を抹殺され、欲望を我慢することがいいことと思い込まされ、我がままをいう自分を抑圧してきたために、欲望を出すことが怖かったのです。
適切な水路を持ち、そのつど欲望を放出していたならいいのですが、あまりに塞き止めてきたために、その欲望に自分が飲み込まれて、止まらなくなくなるのでないかと、どこかでわかっていたのでしょう。
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インテグレーター養成講座(自己愛論Ⅱ 自己愛の構造)より
<講座テキストより>
自己意識によって自己像をとらえられない段階においては、自己像を他者の眼の中に発見する以外にはない。
その起源は母のまなざしの中にある。
<解説>
母は自分の子どもに、こういう子になって欲しいと、自分の理想を子どもに投影する。
子どもは母のまなざしの中に映った自分、母が思い描いたイメージを自己像として受け取る。
本来自己像とは、自分でつくらなければいけない。
こういう人間になりたいと、子ども自身の象徴界(言語)でつくった自己像であるべきである。
例えば、3歳は3歳なりに言葉を使い、これが欲しいという自己像を持っている。
ところが子どもが、「あれも、これも、それも欲しい」というと、母は「どれか一つにしなさい」と言う。
すると、本当は3個欲しいのに、1個を選ぶ自分が母親が自分に求めた自己像となる。
そして、それを自分の自己像にしなければならなくなる。
そうしなければ自分を受け入れたもらえないから。
こうして、3個を選ぶ自分は排除さる。
これは子どもにとっては不本意。
「3個欲しい」といって、母が「いいよ」と言ったときには、自分の欲求と一致し、「私は3個欲していいんだ」となる。
この一致の喜びが子どもの自己愛を形成し、その再現を求め、一致は繰り返されて自我が形成されていく。
子どもに健康な自己愛をつくるのも、親の子どもに対する 『 ALL OK 』である。
子育て中のお母さんにいうのは、子どもへの対応法 『 ALL OK 』
頭でわかっていても、それがなかなか実行できないと言われる。
それはよくわかる。私自身がそうだったので。
それでも、分析により自分を知っていくうち、できていく。
もちろんそれには個人差があり、私などは大変な時間がかかったが。
理論的にかみ砕いて説明してもらうことも、私はとても良かったと思う。
今またこうしてクライアントに解説しながら、あらためて 『 ALL OK 』の意味をかみしめている。
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